今回は、わたくし たまごセのプロフィールがてら
生い立ちについてご紹介させていただきます。
現在のたまごセ ファミリーは またの機会にご紹介します。
ここでは実家を出るまでの生い立ちをご紹介。
神奈川県生まれ。25歳まで実家に居住
家族~父、母、兄 +家の隣に祖父母、犬
父親:ブルーカラーで会社員を定年まで勤め上げる(平成30年逝去)
母親:専業主婦・私ども兄弟が小さい頃は家で洋裁の仕事、その後は飲食店、新聞販売店でパート
兄 :2つ上 高卒 会社員 妻と娘一人 親とは別居し神奈川県在住
祖母:専業主婦・和裁の仕事+アパート経営(自宅の2階を2部屋)現在施設に入って102歳
祖父:大工(平成2年逝去)
以上のような環境で育ちました。
それぞれ、ご紹介させていただきます。
祖父母について
まずは、祖父について。
すでに亡くなってから30年経ちます。
性格は、寡黙なタイプでとにかくお酒が好きで毎晩の
晩酌を楽しみに生きているのでは?と思うくらいの
お酒好きでした。
皮膚疾患を抱えており、お酒で血行が良くなると体中を
ぼりぼりと 掻いているのが印象的でした。
わたくしが小学生のころ胃がんの手術で4分の3取ってしまった
のですが、お酒は晩年も飲み続けていたようです。
祖父は若いころ先妻に病気(結核)で先立たれ、
今の祖母と結婚したと聞いております。
大工だったので、家にのこぎりやカンナ、キリなどが転がっており
小さいころ それらを使っていろいろなものを作ったのが
懐かしいです。(タケウマ、犬小屋?、棚etc…)
祖父が亡くなった時、あとを追う様に飼っていた犬(チビ)が
数週間も経たないうちに旅立っていったのが印象的でした。
続いて 祖母です。
料理好きで和裁を生業にしていた大正生まれの女です。
わたくし自身、なかなかの おばあちゃん子で
おそらく、孫の中でも一番すごした時間が長い!と
豪語できるくらい ちょくちょく隣の祖父母の家に
顔を出してはテレビを見たりお茶をごちそうになったりしたものです。
子供(わたくしの母親達)が小さいころは、仕事で留守がちな祖父
の分の役も担い、家族の世話焼きに奮闘していたようです。
アパート経営も このころの金銭苦からの発想と聞きます。
御殿場出身でわたくしが小学生くらいまでは、お正月などに
祖母の実家に行って、ごちそうやお年玉をいただいたものです。
そんなバイタリティーあふれていた祖母ですが、90代後半から
施設に入り、経管栄養で過ごす日々となっております。
父親について
数年前に79歳で逝去
東北出身で就職を機に神奈川に出てきて以来、転勤などはなく
神奈川県で生涯の大部分を過ごし、その幕を閉じました。
東北の実家は農家の大家族で兄や姉が合わせて5,6人いて父は
下から2番目で弟が一人いましたが、男兄弟は全員すでに亡くなって
いて姉が二人、それぞれ神奈川県で生活されている様子。
父親は、旧国鉄の運転手で定年まで勤め上げ 定年後は
近所の大学の施設警備員として数年勤務し、完全リタイヤ。
第二の人生は夫婦で日本各地を旅行したりと楽しんでいた様子。
その後、70代前半で食道がんの手術を経験した影響もあり
メンタルが不安定となり、晩年は病との戦いで
本人も介助する母親もさまざまな局面を乗り越えてきた様子。
生前の父親の趣味は、クラッシックギターやお酒でした。
時間のある公務員という立場を活用し、ギター教室に入って
教えてもらい、区切り区切りでギター教室で大きなホールを
借り切って発表会を開いてました。
家族でその発表会を見に行ったことが記憶にあります。
わたくしが中学か高校のころにはギターはだんだんフェードアウト
していったように思います。
お酒は大好きで、毎晩のように晩酌していて酔って家族に
講釈をたれるのがストレス発散のように映ってました。
食道がんの手術の後は飲めなくなり、楽しみを奪われてしまった
感じでかなりのストレスだったのかもしれません。。
総合的に父親は、平凡な昭和の男だったのでしょうか。。わかりません
母親について
母親ですが、父親の転勤がなかったということもあり、
生まれて一度も県外に住んだことがなく、おそらく
今後も他の土地に住むことなく神奈川県でその幕を閉じる
こととなるでしょう。
5人兄弟の長女として第二次世界大戦開戦直前に生を受け
結婚して生家の隣に家を建て(大工の実父も建設に関与)
料理好きな母親(わたくしから見て祖母)の影響を多大に受け
学歴はないが、昭和の女として専業主婦の役を全うした人。
性格は明るく 10秒と黙ってられないくらいのおしゃべり。
今年80歳になりますが、元気で大きな持病もないし
けがや事故の履歴もないので100年ライフに向かって
突き進むと考えております。
印象的なエピソードを一つご紹介すると、
わたくしが小学生のころ、来る日も来る日も
兄弟げんかをしているものだから、ある日母親がヒステリーを
起こして、洋裁に使っていた50cmぐらいの物差しで
おもいきりヒステリックに何回も何回もひっぱだかれたのを
今でも強く覚えております。。
兄について 「兄弟は他人の始まり」
2つ年上の兄とはけんかをした思い出くらいしかないほど
小さい時から例外なく一貫して仲が悪く(犬猿の仲)
同じ小学校にお互いいて、校内で顔をあわせても。。。
まったくそっぽを向いた感じの間柄でした。
小学校当時、それでも時々 当時はやっていたスーパーカー消しゴム
などで一緒に遊んだりはしたのですが・・
何か不具合があると直ぐに言い争いとなり ひどいときは
殴り合いになる有様。
小学生で2つ年上だと体格差があり、腕力では到底年上には
かないません。
そんなことはおかまいなしに、顔面を殴られたときは
漫画で見るような 殴られた瞬間目の裏側で火花が飛び散る
光景を見たことを今でもとてもよく覚えております。
日々けんかの繰り返しだったので、お互いが中学生くらいになって
以降は 一緒に遊んだりすることはなくなり
兄弟で時間を共有したような思いでは全くありません。。
兄が高校に入って、たいした野球歴はないのに硬式野球部に入り
ユニホームや野球道具をそろえてかなりお金をかけてもらった末
練習についてゆけず、数か月で結局やめることになったことは
印象的で、「やっぱり、続かなかったか。。」と
遠目に見ながら感じたことは今でもはっきり覚えております。
兄は学区内でトップの進学校に入ったのですが一浪の末
結局大学進学をあきらめ東京の鷺宮で一人暮らしをすることとなりました。
専門学校進学で行ったのか、就職で行ったのか今でもよくわかりません。。
東京で一人暮らしをして数年後、交通事故を起こし金銭的な理由からか(?)
結局、実家に戻ることになりました。
兄が引越しをするにあたって、当時大学生だった わたくしは
母親に強く説得されて、引越しの手伝いをすることとなりました。
ワンボックスのレンタカーを借りて わたくしの運転で母親を同乗させて
兄の住まいへ向かい、引っ越し作業を1日で完了させたと覚えております。
母親に引越しの手伝いを促されたときは当然のように(?)
気乗りがしなかったわけですが、運転手+引越しの作業員のバイト代として
たしか1万円出すとのことだったので、日給1万円昼飯付きなら
悪くないか。。と結局お金につられて
いやいやながらも1日過ごしたように思い出されます。
その後、兄が実家に戻ってからの出来事として思い出されるのは
わたくしの留守中に、たばこを吸わないわたくしの部屋で
勝手に喫煙し、帰宅後大騒ぎになったりと。。。
引き続き「犬猿の仲」の思いでしかよみがえりません。
こんな感じの繰り返しだったので、
お互いが結婚して子供ができてからも まともに口を交わした
ことはなく、お互いの妻や子供を介した間接的なコミュニケーション
程度で引き続き距離感を保っております。。
父親の葬儀、法事などで顔を合わせることもありましたが
過去(小さいころ振るわれた暴力、数えきれない程の争いごと)が
フラッシュバックしてしまうので
今後もこの距離感は変わらないことでしょう。。
「兄弟は他人の始まり」
人生いろいろな学びがあってよいと思います!